■ 紫陽花 
01 

 

「子犬。紫陽花を見に行くぞ」
 ジェネシスは突然そう言うと、宿の傘を借りて外へ出た。ザックスはこれ以上ないくらい大きく目を開き、慌ててその後を追う。
 外は小雨。任務の途中で寄った田舎町にあるこの宿屋で「山にある一面の紫陽花がこの村で唯一の自慢だ」と、店主が話して教えてくれた直後の出来事だった。もちろんザックスが驚いたのは店主の話の内容ではない。
(聞き間違いじゃないよな? だってジェネシスだぞ?)
 心臓をバクバクと鳴らせながら、自分に何度も確認する。
(この雨の中、植物を見に行くって言ったんだぞ?! あの!ジェネシスが…!!)




【紫陽花】





 さして冷たい雨ではないからと、ザックスは傘をささないままジェネシスの後に続く。
 シトシトと降る小さな雨の粒は、周囲の音を吸収し世界を静寂へと変え、ジェネシスの傘から落ちる小さな雫とザックスの足音だけが交互に響いていた。
 同じ水溜りの山道を歩いているというのに、数歩前を行くジェネシスからは不思議と足音はしない。それどころか、ドロ跳ねだらけのザックスのブーツに対し、ジェネシスの赤いコートには一摘のドロ跳ねもない。
 いったいどんな歩き方をしているのだろうと、ザックスがそればかりに注視して頭を捻っていると、やがてその赤いコートはピタリと止まる。
「?」
「あれだ」
「あれ?」
 ジェネシスの声にザックスは顔をあげ、目の前の赤い壁からヒョイと頭をずらす。すると、目の前に広がった光景に思わず歓喜の声をあげた。
「うっわー! すげー! 一面の青!!」
 そこには、宿の店主が言っていた一面の青い紫陽花が咲いていた。山の斜面の一角を埋め尽くすように群生した青い紫陽花の群れ。野生化しているそれは背が高く、鮮やかな大きな葉からは今にもこぼれ落ちそうな丸い花の束が顔を出している。
 それがいくつもいくつも重なって、まるで時間の止まった青の滝のように、ザックスの目の前に広がっていた。
「すっげぇ…! さすが村の自慢だけあるな。あ、写真撮っとこ」
 その初めてみる光景を写真に収めようと、ポケットから携帯を出す。が、そのフリップを開いた所で耳に入ってきたジェネシスの声に、ザックスは思わず手を止めた。
「…違うな」
「? 違う…?」
 紫陽花があると聞いて来た場所に紫陽花があった。それは確かだというのにいったい何が違うというのか。
 ザックスはすぐ隣にいるジェネシスの顔を見上げたが、丁度傘で表情が隠れて見えなかった。屈んで覗き込めば見える角度だが、ザックスはこの時、何故かそれをしてはいけない気がした。
 うっとうしい雨が嫌い。大嫌いな虫のいる緑にも近づきたくない。そんなジェネシスがそれをおしてまでここまで来た理由を、無神経な好奇心で覗き見てはいけない。そんな予感がしたのだ。
「……」
 ザックスはそっと携帯をしまいポケットへと入れる。
 『違う』と言ったジェネシスはその後は何も言わず、だがその場から動こうともせずに、ただジッと紫陽花の群れを見上げていた。
 雨音だけの静寂の中、ザックスもまたその視線の先を追うように紫陽花を見上げる。 
 
 青、青、青。
 一面の青はどれも雨粒に濡れ、鮮やかに色を放つ。
 空の青。
 海の青。
 瞳の青。
 波のように揺れる濃淡のグラデーションを描きながら、それでもどこまでも一面に続く青。青。青。
 紫陽花の花の色は土の酸度によって決まる。この場所は酸性土壌なのだろう、一面の紫陽花は鮮やかな青い色に染まっていた。
 だがジェネシスは、それを見て残念そうに溜息をつく。
「何が違うの…? 形? 色?」
「色だ…少し、な」
 そっと聞いてみたザックスの問いに、ジェネシスは素直に答える。ザックスはそれだけで察した。
 ジェネシスがこんな風に素直に答える事といえばただひとつ、故郷に関わる何かだ。故郷に関わる何かを思い出し、ジェネシスはここに来たのだ。
「バノーラ村にも紫陽花があった?」
「いや。…童話の中の話だ」
「童話?」
「……」
 ジェネシスはそこで口を閉じた。
 童話というまさかの単語に、ザックスは目をパチクリさせたまま続きを待つが、ジェネシスは何も言わない。まるで、つい差し込んでしまった大切な宝箱の鍵を、回すのを躊躇うようにそこで止まる。
 止まったまま、雨の音の中を、紫陽花の中に遠い日の面影を見ていた。



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