■ 「あと5分」の後の敗北 
01 

 

恋は惚れた方が負けだなんて、
いったい誰が言ったのか。
惚れた方が負けるのなら、
俺はもう一生、アンジールには勝てない。



「なぁ、まだ~?」
「まだ。もう少しだ」
「もう少しって、どのくらいもう少しなんだよ!」
「あと5分くらいかな」
「それさっきも聞いた!何度目の『あと5分』なんだよっ!」
 動き続けるオーブンの前にしゃがみ込み、ザックスはむぅっと頬を膨らます。
 アンジールがそれを「仕方ないだろう」とたしなめると、ザックスはムスッとしたまま膝を丸めて座り込んでしまった。
 ザックスが待っているのはアンジールの手料理だった。
 ただの手料理じゃない。アンジールが昨日の夜から手をかけて作り続けている料理だ。
 良い子羊の肉が手に入ったからと、ハーブやワイン諸々を馴染ませ一晩じっくり冷蔵庫で寝かせた後、朝からその肉を常温に戻しながら、これまた様々な手の込んだ詰め物を用意。
 それらを肉の中に詰めてフライパンでこんがりときつね色に焼き色を付ける。
 この段階でも相当ないい匂いが家中に広がり、ザックスの鼻は今にも飛んで行きそうなくらいピクピクしていたというのに、ここからが地獄の本番だった。
 低温ロースト。
 低めの温度で肉の内部の温度を調節しながらひたすらひたすら時間をかけて焼くこの料理は、時間がかかるというだけでなく、温度調節の為にその作り手であるアンジールの気を引き続けるという、ザックスにとってはまさに欲しいものが全く手に入らないという地獄の調理法だったのだ。

「もう、我慢できない!もう十分できてるじゃないか!これでいいじゃないか!」
 ザックスが見つめるオーブンの窓の中には、肉汁がたっぷりとたまったロースト皿の中に、これでもかというくらいこんがりと焼かれたラム肉が手招きをして微笑んでいる。いったいこれのどこが『まだ』なのかは、到底理解できない美観さだ。
 だが、アンジールは同じ窓を覗き込むと「うーん」と悩みながら髭を数度摩り、再び地獄の呪文を口にした。
「あと、もう5分だな」
「また?!」
「これで最後だ」
「嘘だ!信じられない!アンジール、絶対、俺に意地悪してるだろ!」
 半泣き状態で訴えてくるザックスのお腹はすでにグーグーだ。むろん、朝も昼も食事はちゃんと取っているが、これだけ気になるものがあるともうどうしようもない。
「もうこれでいい!これが食べたい!絶対に譲らないからな!」
 半分泣きながら、半分怒りながら、ザックスはオーブンのタイマーを手で塞ぐ。アンジールによるタイマーの調節を断固阻止!ザックスの勝負は始まった。
「ザックス。いい子だからどけ」
「い・や・だ!!絶対に嫌!断固、嫌!」
 アンジールに腕を捕まれでもザックスは断固としてそこから手を離そうとしない。もう限界なのだ。
 お腹が空いているだけじゃない。せっかくの休日だというのにアンジールに構ってもらっていない。
 不足しているのだ…アンジールが。

「ぜっったいに、駄目!!」
 頑として譲らないザックスにアンジールはため息をつくと、「仕方のない奴だな」と小さく零しザックスの顎に手をかけた。
「? アンジー…」
 それにキョトンとするザックスの顎をそのままスーッと持ち上げると、上から塞ぐように唇を合わせる。
「……っ」
 ザックスの柔らかな唇を解すようについばみ、開くように促す。ザックスがそれにおそるおそる応えると、アンジールの舌先がスルリとザックスの口内に入り込んだ。
「…ん…ぅン」
 寂しくて恋しくて、さんざん欲しかったものが突然ふりそそぎ、ザックスの胸はトクンと高鳴る。

 大きくて暖かくて優しい匂い。
 アンジールの匂いだ。
 欲しかったぬくもり。何度味わってもまた欲しくなるぬくもり。
 それがもっと欲しい。

 …と、ザックスがウットリとなり力が抜け始めたその瞬間、聞きなれたオーブンのタイマーを操作する音がピッピピピッと鳴った。
「あ」
 ハッと我に返ったザックスが目を開けて見直せば、アンジールの手がオーブンの時間を加算している。追加された時間は5分。
 唖然とするザックスがゆっくりと視線を向ければ、そこには勝利に微笑んだアンジールがいた。


  
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